日本人の履歴~太古の時代から連綿と続いた悠久の民族か?!
長女から正木高志さんの著書「蝶文明」(さんこう社)をもらい8月27日夜、成田からソウルに向かう飛行機の中で読んだ。秀吉の侵略、江戸時代の国学、皇国史観にある「朝鮮を敵視する」理由はなにかが私の疑問だが、著書で正木氏はそれは「百済のカルマ」であると明快に推論している。
その正木氏に翌28日、ソウルの大学路にある成均館大学で開催された「東アジア平和と市民自治フォーラム」の会場で偶然お会いした。
正木氏との会話に触発されて、本で紹介されている3冊の本~①「日本の成り立ち」(埴原和郎著、人文書院)、②「日本古代史と朝鮮」(金達寿著、講談社学術文庫)、③「縄文時代」(小山修三著、中公新書)を図書館からさっそく取り寄せた。
また、韓国の国立中央博物館、佐倉の国立歴史民族博物館の「アジアの境界を越えて」にも足を運んだ。
人類学者で人類進化史が専門の埴原和郎氏は、前掲書①で次のように述べている。
-「アイヌや沖縄の人々は、本土人に追われて北海道や南の島々に逃れた」という人が今でもあとを絶たない。これは古い〈人種交代説〉、ないし皇国史観の産物である〈大和民族征服説〉の文脈で考えられた“おはなし”で、科学的な裏付けのない観念である。とくに注意しなければならないことは、このような“おはなし”がアイヌや沖縄の人々に対する差別感の温床になりかねない・・という危険性である。
私がこの本で繰り返し述べたように、彼らの祖先は縄文時代いらい北海道や南西諸島に住み、そこで小進化して現在にいたったのである。むしろ変化したのは本土人の方で、在来系と渡来系の大規模な混血によって現代的本土人が形成され、また両系統の文化が融合することによって、いわゆる大和文化が成立したといえるだろう」
千葉県の教育振興基本計画で、5年間に実施する重点的な取組の一つに「郷土と国の歴史や伝統文化等について学ぶ教育の推進」を挙げているが、真の「国際人」を育てるためにもまず日本人のルーツを科学的な裏付けをもって学ぶ機会を提供すべきである。
ところで、ビッグイシュー日本語版8月15日号に、ノンフィクションライターで野菜の原産地を探す旅をした池辺誠さんの一文が載っている。
日本の野菜消費量のトップ10は以下の通りいずれも原産地は日本ではない。
原産地 日本に伝わった時期
ダイコン 中国 奈良・平安時代
キャベツ 地中海 幕末・明治時代
タマネギ 中央アジア 室町・江戸時代
ハクサイ 中国 幕末・明治時代
キュウリ インド・マレー 奈良・平安時代
トマト 中米 室町・江戸時代
ニンジン 中央アジア 室町・江戸時代
レタス(非結球)近東 奈良・平安時代
その他、ジャガイモは江戸時代に中南米→オランダ→インドネシア→長崎のルートで、同じく中南米原産のサツマイモも日本への渡来は江戸時代と考えられているという。
縄文前期(紀元前6500~5500年)には、アフリカのヒョウタンがすでに日本に渡来していたことがわかり、池辺さんは、「野菜が海の向こうから渡ってきたということは、日本に持ち込んだ人がいるということ。だとすれば、日本は世界各地からの移民が集まってできた国なのかもしれない。野菜が来た道をたどる旅は、日本人のルーツを探る旅になると思いました」と語る。
野菜一つを通しても、日本人を一種特殊な集団とする「単一民族説」「純粋人種」「選民思想」の怪しさが鮮明になる。
埴原和郎氏は
「日本人は日本人だけでできあがった集団ではないのである。日本列島の在来集団といえども、もともと日本列島で生まれた人々ではなく、またその集団が連綿としてこんにちまで続いてきたのでもない。集団は常に他の集団の影響を受け、自然の試練にさらされつつ、みずから変容をとげて生き続けてきたのである。日本人の成り立ちを考えるということは、このような内的・外的な要因を明らかにし、それが日本人という集団にどのように作用したか、という過程を探ることにほかならない」とし、人種(民族)主義に陥らないためには、「常に人類全体の進化を視野に入れ、特定の集団に対する特定の価値判断を排除すること」が必要という。(前掲書①、298~300頁)
日本人を「太古の時代から連綿と続いた悠久の民族」ととらえる方々は、ぜひ、人類進化史に基づき自らの「仮説」の科学的な根拠を示してもらいたい。
以下に、日本人のルーツについての埴原和郎氏の「仮説」の一部を紹介する。
●日本人の履歴〈弥生時代にはじまった二重構造〉
~「日本人の成り立ち」(埴原和郎著、人文書院)286・287頁から
(1)旧石器時代から縄文時代(一万二千年前~紀元前3世紀頃)にかけて、少なくとも2万年ほど前から日本列島に住みつき、現代の日本人集団の基層となったのはおそらく東南アジア系の原アジア人集団だった。
(2)このような日本列島に、主として弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀)以後、大量の北アジア系集団が渡来してきた。この渡来は7世紀ころまでのほぼ1000年間にわたって続いた。
(3)渡来系集団は、まず北部九州を中心とする地域に住みついたが、その数を増すに従って近畿地方にまで広がり、ついに朝廷を成立させ、同時に在来系集団と徐々に混血した。
(4)渡来系集団の一部は、弥生時代から古墳時代にかけて東日本にも進出し、大和政権の勢力を拡大した。
(5)在来系・渡来系集団の混血は西日本では濃く、東日本ではやや薄い。また西日本の中でも、南部九州や四国では混血の影響が比較的少ない。
(6)渡来系集団との混血の影響がもっとも少ないのは、アイヌと沖縄の集団である。
(7)在来系・渡来系集団の混血は現在も進行中であり、日本集団の二重構造は今も維持されている。日本列島にみられる身体的・文化的地域性は、これら二集団の接触の濃淡によって生じたと思われる。
【参考】弥生時代以後、渡来人は極めて強い影響を縄文系集団に与えた(前掲書271~285頁)
小山修三氏は、縄文晩期(つまり弥生時代開始期)の人口は気候の冷涼化の影響で、約7万5千まで減少し、1千年後の古墳時代の7世紀初めは539万人と試算している。
「この1千年の間に何人の渡来人がきたか?」を人口増加と頭骨の時代的変化に基づき
試算したところ、渡来人口が最大となる推定では、1千年間の渡来人口が約150万人となり、7世紀はじめの渡来系人口は484万人で、縄文系人口の約8.6倍となる。
渡来人の影響は無視できる程度といったかつての説は、日本人単一民族説の文脈で考えられた想像(なたは願望?)にすぎなかったともいえる。
尾本恵市氏は遺伝子の割合から、現代日本人(本土人)では東南アジア系(縄文系)と北アジア系(渡来系)の割合がほぼ、二対八になるという。
日本人の二重構造が弥生時代にはじまり、それが現代にまで続いている。
写真は、「8月28日午後、ソウルの成均館大学で開催された「東アジア平和と市民自治フォーラム」(主催:強制併合100年共同行動韓国実行委員会、主管:韓日100年平和市民ネットワーク・京畿市民社会フォーラム)の様子。私は、「地域の市民運動のグローバル・ネットワーク方策」というテーマで報告した」








