14日午後、バイオハザード予防市民センターも後援団体の一つに名を連ねた「第9回平和のためのコンサート」(主催:平和のためのコンサート実行委員会)が東京都新宿区の牛込箪笥区民ホールで開かれた。第2部では梁石日(ヤン・ソギル)さんが「在日コリアンの現在」というタイトルで講演した。
「平和のためのコンサート」で講演する梁石日さん
梁さんは現在、「週刊金曜日」で「従軍慰安婦」をテーマとした「めぐりくる春」を連載中だ。執筆の動機について「「will」という雑誌で、小林よしのりと上坂冬子の対談を読み、上坂の『朝鮮人は当時、日本人であり、日本人だったら戦場で兵隊のために身も心も捧げるのは当たり前、私も年頃だったら兵隊に身も心も捧げた』という発言を目にしブチ切れた。この差別を通り越した露骨な主張に、負けてはいられないと思った」と語った。
「自我とは何か?」について、
「人は他者と向き合うことで目覚め自我が成長していく。他者が鏡のような存在だ。我々は他者と向き合わないと自分の姿がわからない。鏡を見てはじめてわかる。民族的自我、国民的自我も同じ。つまり民族も他民族と、国家も他国としっかり向き合わねばならない。
かつて言われた「近代的自我の超克」という言葉を今は耳にしない。高度経済成長で近代的自我などクソクラエということになった。」
そして「在日コリアンの役割」については、
「在日コリアンの役割を、もう少し明確にすることが日本の市民、社会にとっても必要と思う。せめて地方参政権は必要で、そうしないと意見主張する場所がない。
個人的には、社会は混合していくのが一番良い。そのほうが強い社会をつくる。純粋培養では弱い社会しかできない」と語った。
高度経済成長の負の側面として、水俣病などの公害問題、拝金主義などが指摘されてきたが、「自我の成長」という視点からも考える必要がありそうだ。
●「水俣への旅」報告④~緒方正実さんのお話
昭和32年12月生まれ、木工職人 2007年、8年ぶりに公的認定を受ける。4人家族。
5月31日午前、仕事場でお話を伺う。
「未解決問題がたくさん山積み状態で、中身はズタズタで必死の思いでそれぞれの人が精一杯くらしているのが水俣です。今日はどういうお話をすればいいのか悩みましたが、あいまいな伝え方ではとんでもないことになるので、限られた時間の中で非常に困難なことですが、正確な伝え方をしたいと思います。」
緒方正実さんとこけし
生まれた家は網元で一番多い時で近所や親戚など40人が働きに来ていた。40人が毎日食事も一緒だった。
昭和34年9月 水俣病が家族を襲った。毎日抱いて寝てくれた祖父が水俣病を発病した。当時父親は20歳代だった。祖父は母に体がおかしいので寝てやれないと言ったそうです。症状が毎日毎日悪化していった。当時は奇病といわれ、大学病院で診察を受けた。
今から50年前、熊本の大学病院に連れて行くことは、よっぽど地域の医者も自信がなかったと思う。どういう診断されたのは聞いていないが、病状は悪化する一方で、市立病院入院後、1週間かそこらで狂い死にしてしまった。とにかく奇病といわれながら死んでいった。
大黒柱を亡くしパニック状態になった。祖父は発症するまでは元気で何があっても絶対死なないだろうと言われていた。水銀の影響を心配で自分たちも不安だった、しかし、口に出来ないし、診療も受けられない。「奇病」として世の中からこわがられる病気だった。
母から聞いた話だが、近所の人が家の前を通るとき、口を手で覆い息を止めて走り抜けていったという。初七日が済み、漁に出て町の市場に魚を持っていった。ところが市場では緒方の魚を買い取ることを拒否された。一緒の海で不知火海で獲ったのに、誰が獲ったかで判断された。こうしたことは長くは続かなかったそうだが、この思い、悔しさは残っている。
しかし、今考えれば、時代がそうさせたのであって、個人を恨んだりすることは許されないと思う。自分の健康を自分で管理すべきだから、誰もがこわがるのは当然。むしろ、きちんと解明すべき世の中、行政をうらむべきだ。自分はなにも悪いことをしていないのに、水俣病はかくさなければならない事情があり、特別扱いされた事情があった。
祖父は発症して約3ヶ月で死亡。昭和34年、妹が祖父に入れ替わるように生まれた。胎児性水俣病患者だった。
母親も父親もしばらくは自らの人生を守るために隠し通した。多くの人が隠し通した。
患者がかくし通した悲しい歴史が50年たっても解消しない。だからといって責めることはできない。
私の家族、親戚で20人の認定患者がいる。94年の政治解決で救済の対象となった人は私の親族で60名いる。実際は数十名ではきかない、確認できない位いると思われる。
おおげさと思われるかも知れないが私の人生は「水俣病ではじまって水俣病で終わるだろう」と思う。数年前まで、いつ死んでもおかしくないといったくらい、世の中に対して不満が爆発していた。どういう格闘か?というと、人間として見捨てられた私の人生を取り戻す格闘、闘いだった。というのは今から12年位前「政治解決」があった。
私は、それまでウソをついてまで水俣病ではないと言ってきた。
私は、魚が大好きでどんぶりいっぱいの貝や刺身を毎日食べていた。しかし、食べたことはないとウソを言っていた。考えてみれば人よりも多く毎日、毒を食べていた。2歳のときに熊本県が毛髪の水銀濃度を検査したとき、226ppmだった。祖父や妹は周囲の人がほっとかなかったので認定されたが、私は認定申請しなかった。
左手がしびれ、2本の指は針をさしてもわからないくらいだ。耳鳴りがして、せみが頭の中で鳴り響くようだ。
外から見てもわからないものだから、水俣病を引き受ける覚悟がなかった。逃げ続けてきた38年だった。政治解決のときに、一人の人間の力の弱さを感じた。
H8年1月~7月1日までの期限の中で、申請期間が定められた。これで水俣病はすべておわりといわれた。おわりか、おわらされるのかという気持ちで申請した。
私の中では、正直いって、不満が沢山あり絶対許せないが、このくらいで許してやるという気持ちがあった。「許さないのであればどうするか?」の回答が自分の中にないことがわかった。心の中で整理して受け入れ態勢をつくっていた。すべてが、自分が対象になるという前提で考えていた。
申請に対する通知書を受け取り、送り返そうかなどと迷いながらもおそるおそるあけてみた。何がなんだかわからないというのが正直な気持ちだった。通知書には「あなたは水俣病と関係ない、認めない、症状もない」と記載されていた。何のことか?
毛髪水銀のことや家族の被害のすべてを伝えていた。
私は一瞬、別の人のことだろうと思った。
行政から事実に反したことを告げられたことを放っておられない。38年間、死ぬ思いできたことを無残にも切り捨てられた思いがした。逃げる中でつらい思いもあり、そこに私の人生の歴史があった。そういう歴史がなかった、緒方正実はこの世にいないよと告げられた思いだった。
一時金260万円出していただいたならば今後の水俣病の研究のために寄付するつもりだった。受け取れなかった、38年間自分の都合で逃げてきた自分には使えない。全面解決に向けて取り組んで欲しい。人を助けることに使うことは自分を助けることになると思った。
熊本県に、なぜあなた方は私を切り捨てたのか?と問うた
担当者「何で緒方さんはこうなったのでしょうかね。政治解決で救済の対象にならなかったというのはおかしい」
緒方「おかしいことをおかしくないようにすることが、あなたたちの仕事でしょう」
担当者「気持ちはわかるが県レベルではどうにもできない。政府の決めたことだ」
緒方「どうしても出来ない理由は」
担当者「7月1日で受付を締め切った。だから受け入れ態勢がない。結果について異議申し立てしないことがこの事業の前提だ」
緒方「じゃ、あなたが私の立場だったらどうしますか」
担当者「今、その立場になっていないのでわからない」
緒方「あなた方ができないなら、私がどうにかする」
その後、別室に呼ばれ、どなりちらされた。「あなたができるのか!何をするのか!何が不満なのか!」 その言葉が残念で、その一つ一つの出来事で闘いの人生がH9年1月に始まった。
緒方正実はこの世にいないと行政から告げられて、平気ではいられない。
水俣病は私の人生の中で重大事件だったことに気がついた。
自分自身が水俣病をある意味で差別していて、このことをわびないならば、自分は水俣病患者であることを名乗ることから出発し、自分の責任をもって発言をしていく
もう水俣病から逃げ出せない状態をつくった。人間は死ぬ気になれば実現できる。
あやまった中で起きている訳だから認定できないはずがない。もしできないなら法律が間違っている。水俣病が終わったとされる平成9年1月から一人の闘いをはじめた。
何百回、何千回、人から「なぜ今さら」と言われた。
自分の人生を切り捨てられたことで、人がなんと言おうと自分が納得できるまで「絶対に闘う」ことを誓った。
私は死ぬ思いで生きて10年間、国、県と闘い、認定申請を4回行った。
1回の申請で十数回の身体測定、詳細な聴き取りがされるので、普通の人はイヤになる。
それでも私は、申請結果の間違いを毎日毎日検討し、資料を突き出し説明を求めた。次の申請の時に、それが生きてくる。
成績証明書の無断使用事件では、知事が私のところまで謝罪に来るという人権侵害があった。その直後に、私が提出した申請の報告書で職業欄に「無職」と記載したのに「ブラブラ」と行政が書き換えていた。40何年の歴史の中で水俣病被害者を見下げている。こうした報告書の改ざんは絶対に認められない。小さい問題でも自分の前にあらわれた問題はすべてきちんと解決していくんだという覚悟だった。しかし、行政は進んで自分たちから問題解決しようと一切しない。
水俣病が解決できない理由がここにある。被害者を見下す気持ち、差別があるところに救えるハズがない。
07年3月15日、逆転認定を勝ち取った。2266番目だった。
法律と闘っても仕方ない。「あるのにない」というのは何故か!このことを追求していかねばならない。それをやってきた。その気になって正面から向き合えば不可能なことはないのだと思う。
県が患者を差別するのは、県は加害者の立場にあり、罪を軽くしたいという思いがある。貧しい漁村地区での被害であり、漁村地区への見下しもあった。役人という立場の「思い上がり」もある。」(文責:川本幸立)
水俣・丸島漁港と魚市場