台湾の地方自治と日本統治時代
25日~28日と台湾に滞在し、26日は台北市(市議会、台北市立興雅国民中学)、27日は高雄市(市政府、市議会)を吉川洋県議とともに訪ねた。主な目的は、①地方自治の現況~行政・議会・市民の関係、②議会の審議の実態、③教育局と学校の関係、④日本統治(1895年~1945年)に対する歴史認識、の4点である。
感想を言えば、議会の行政からの自立、議員の専門家としての位置づけ、市民の陳情・請願を当事者・専門家が参加する公聴会(議員に開催の権利あり)で徹底審議し、教育施策でも当事者主権が尊重されていることなど、千葉県よりはるかに進んでいる。1987年まで戒厳令が布かれ地方自治の存在すらおぼつかなかったと思われる台湾の方が、地方自治において日本より優れているという印象を受けたのは驚きだった。
それだけ自民党による審議放棄とその見返りとしての行政幹部との水面下の取引が議会を形骸化し、市民ら当事者の立場を貶めているということだろう。
詳細は今後、このブログで報告したい。
●日清戦争講和条約批准後に開始された台湾の抵抗運動
台湾というと、台湾統治をめぐるNHKスペシャル「アジアの“一等国”」(昨年4月放送)の評価で、自民党の安倍晋三元首相らが「「反日」で貫かれている」と批判し、県議会自民党もそれに呼応して「日台戦争」をでっち上げたなどとする「NHKへの偏向報道に関する調査と行政指導を求める意見書」を昨年の6月県議会に提出したことが記憶に新しい。
今回は、事前に①「図説・台湾の歴史」(周婉窈著、平凡社)、②「日本植民地探訪」(大江志乃夫著、新潮選書)、③「観光コースでない台湾~歩いて見る歴史と風土」(片倉佳史著、高文研)、程度しか目を通すことができなかった。
それでも、50年間の日本統治後、1949年5月~1987年7月の38年間戒厳令が布かれ2・28事件など「白色テロの時代」が続き、「台湾人が台湾の歴史を学ぶことができなかった歴史は100年におよぶ」こと、オーストロネシア語族(マダガスカルから、インドネシア、フィリピン、ハワイ諸島、タヒチ、イースター島に分布)の台湾はオランダ東インド会社(1602年設立)により中国大陸からの移民が始まったことなど(前掲書①5頁)を初めて知り、自分の無知さを痛感させられた。
1895年5月8日、日清戦争の講和条約が批准された。条約には清国が台湾を日本に割譲する条項があったが、それは参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』第7巻(公刊『日清戦史』)が台湾占領について記述した通り、清国からの「日本が軍事力をもってご自由に台湾を占領しなさい」という形式的な授受手続きに過ぎなかった。
日本最初の植民地領有である台湾は、日本がその後に獲得した他の植民地と異なり、条約上の形式だけが先行し、植民地支配の実態はその後の武力征服(=日本による台湾征服戦争)によって作り上げられた。(前掲書②264‐265頁)
公刊『日清戦史』や陸軍省編『明治二十七八年戦役統計』によれば、条約批准後の台湾征服戦争による日本の戦没者は1万人前後と思われ、その後1903年頃まで続く台湾植民地戦争と併せると、日清戦争の主戦場となった朝鮮国・清国での傷病死者を上回ると言われる。
一方、中国系台湾人の犠牲者は、『後藤新平』第2巻(鶴見祐輔著、勁草書房)によれば、1896年までの征服戦争で約1万7千人、1897年~1901年の植民地戦争で1万1946人と推測されるという。しかし、この数字には1896年4月から12月に行われた大虐殺(『台湾総督府警察沿革史』Ⅱ)による犠牲者は不明のままだという。(前掲書②279-281頁)
台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではないが、各地で民衆が奮起して日本軍に抵抗したのは事実であり(前掲書①99頁)、これらから「日台戦争」はデッチ上げという自民党の主張にはやはり無理がある。
同時に、明治を賛美する司馬遼太郎の近代史観にも首をかしげざるを得ない。
合間をぬって、日本統治時代の史跡を、高雄市では市立歴史博物館(旧高雄市役所、1938年竣工)、昭和天皇も訪れた寿山公園(旧高雄神社)、台北市では総統府(旧台湾総督府、1919年竣工)を見学した。















